■十二年間かけての遍路
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大学を卒業して、某アパレル会社に就職したものの一年もたたずに挫折し、半年の引きこもりを経て、フリーターとして適当な毎日を過ごしていました。うだつの上がらない毎日と決別したい。という当時の僕なりの決心もあったのだと思います。二十六歳のときにお遍路に行こうと決心しました。そして、夜行バスのチケットを買い、徳島を目指して出発したのです。
最初は二、三日歩いてみて、その後はふらふら四国を旅しようと考えていたのですが、それは不可能だと三日目で判明しました。歩き遍路の三日目は、焼山寺を打つ日にあたるためです。強制的に徳島の山奥にいるわけで、焼山寺を打ち終わった後は観光などの気分はとっくになくなっていました。焼山寺を打ち終わった後の民宿で見た風景や夕食の鮎のおいしさは、今でもよく覚えています。「このまま歩いて八十八ヶ所を巡りたい」そう思いました。
結局、初めてのお遍路は十日ほどの滞在で、資金が底を尽き東京へ戻ります。たった十日間でしたが、内向的な自分を変えるのには十分でした。
その翌月には無事に就職を決め、八年ほどその会社に勤めることになりました。サラリーマン時代の八年間は、暇を見つけてはコツコツと区切りうちを続けます。そんな風にしていそいそと八年間通いつめ、二十代後半は高知を廻り、三十代前半は愛媛を廻りました。
お遍路さんを初めて十二年。三十六歳で起業をし、二年間必死で働きました。やっと少しずつ時間が取れはじめた三年目。いよいよ結願を迎える三十八歳のとき、当時の恋人と二人でお遍路に来ました。そして「結願後にプロポーズをしよう」「お遍路のゴールを、人生の次のステップのきっかけにしよう」と思っていました。
そしていよいよ八十八番の大窪寺。軽い雨の中、結願したのですが、肝心のプロポーズはできませんでした。十二年経っても、心の弱さは 二十六歳の引きこもりと変わらなかったわけです。しかし、大窪寺でプロポーズはできなかったものの翌日、金毘羅さんの境内でプロポーズをしました。
それから六年後、新しい家族を伴って高松入りし、妻と娘と金毘羅さんを登りました。六年前にプロポーズをした場所に座り、家族三人あたたかな時間を過ごしました。
お遍路は僕の人生に寄り添うように、いろいろなものを与えてくれました。今では東京に家も建て、遍路を始めたころのニートだった僕にしては、そこそこ良くやっていると思います。就職、起業、結婚、人生の節目には、必ずお遍路がありました。
今は、道に迷ってキョロキョロするようなお遍路の醍醐味は少ないかもしれません。でも、近い将来、また汗でずたずたになったお遍路マップを片手に、右往左往できる幸せを満喫したいと節に願っています。
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